書き手の筆致力、読み手の読解力

どちらが欠けていても「素晴らしい作品」なんてものは生まれないわけです。
そして、書き手は、読み手の読解力を制御することは絶対にできません。
つまり、読み手が作品からなにかを受け取る、なんてのは幻想でしかなく、作品から学び取ることしかできないのだ、ということでもあります。
古典作品が現代で流行したとしても、それが書かれた時代背景も知らず、また知る必要もなく、しかしそこに書かれていることからなにかを読み取ることができるのは、その作品から得た知識による場合も当然あるにしろ、それはきっかけに過ぎず、読み手自身が持っていたものが引き出されたにすぎません。
書き手の力というのは、かように貧弱であり、読み手の責任というのは、かように過大であるのです。