システム、シナリオ、セッション

各要素が担う5W1Hを分解してみるテスト。
私のことなので、ストーリー重視型のセッションを想定しています。


システム:世界の事象を表現するための抽象化ツール(Howへの答え)
シナリオ:世界で起こっている出来事を表現するための事実の羅列(Who、What、When、Whereへの答え)
セッション:世界で起こっている出来事の意味を表現するための場(Whyへの答え)


これを言い換えると、下記のようになります。
システム:世界はどのように(How)(再)表現されるか。
シナリオ:世界では誰が(Who)、いつ(When)、どこで(Where)、何を(What)したのか。
セッション:世界は、なぜ(Why)そうしたのか。


セッションのところの文意はわかりづらいと思いますが、私は個体の意志は別に信じちゃいないので(少なくとも行動の選択という意味では)、まあ適当に読んでください。
事象の連続に意味を付与するのは意志の役割だとしても、意志がその事象の連続をもたらすわけではない、というような意味です。


シーン制システムが端的に示す通り、セッションというのは「状況/場面/シーン」の積み重ねで表現することができます。そこには「流れ」があると言える。
これを事実に即して5W1Hで表現しようとすると、Why以外の4W1Hは、単純に言語化可能です。事象の記法(How)はシステムで統一し、意味の説明(Why)は排除されているわけですから、文脈を形成する必要もない。
文脈は、セッションの場で作ればいい。言い換えれば、GMとPLが作ればいい。(セッションの前段階のシナリオ準備として)仮の文脈を事前に用意するのがGMであり、それに解釈を付け加えて文脈を再生成していくのがセッションであると。


そうなると、非常に無味乾燥なシステムとシナリオが出来上がるわけですが、それでいいんじゃないかなというようなことを最近思ってます。まあシナリオをワンセンテンスで構築する癖がついているせいなのかもしれませんが。(これはこれでオンラインセッションでは必要な技術であるにしろ)
小話を書いてて思ったのが、読み手にとってどうとでも取れるように書くには、出来るだけ具体的には書かずに、出来るだけ抽象的に書きながら、出来るだけ多くの意味を包含するように書くということです。
そして、意味の生成において重要なのは、書き手の意志ではなく読み手の意志である以上、書き手の意志は読み取れないぐらいまで摩耗させてしまってもかまわなくて、そういう意味ではエンゼルギアのシナリオは中途半端だなあとは思いますが、あれはあれで現実との折半と考えれば妥当性は十分に認められるということです。
つまり、書き手の意志がまったく読み取れないシナリオというものが世にそれほど多くはない現状との妥協という意味で。徹底していないけれど、徹底する必要もない、ということでもあります。徹底を求められていないわけだから。


さてそう考えると、なぜを記述する必要のないシナリオというのは、簡単に記述できるようにはできますが、実際には簡単には記述できません。文脈を無視して文脈を作れ、というような論理矛盾になるわけですから。何を書くかは簡単でも(4Wを書けばいいのです)、どう書くかは簡単にはなれないという(4Wを羅列してなにがわかるのか?)。
でもそれは、シナリオ記述における最大の難問、つまり文脈を圧縮して詰め込むという工程そのものの問題点なわけで、はなっから伝わるかどうかわからないんだから別に伝わらなくてもいんじゃね、という割り切りでもあるわけです。
「なぜ?」を考えるのは、GMとPLの役割であって、シナリオライタの役割ではなく、シナリオライタの「なぜ?」とGMとPLの「なぜ?」が同じである必要もない。という前提を踏まえておけば、シナリオライタがどうにも消しきれない「なぜ?」の断片を読み取ろうと捨て去ろうと、それはGMとPLの自由であるということです。
私は基本的に捨て去るわけですが。


結論としては、シナリオ記述そのものの定型を見直したほうがいんじゃね? というような話。「なぜ?」については、書いてもいいし書かなくてもいいけれど、読み手はそれを採用しても無視してもいい。ある程度の経験者は経験則的に理解はしていると思うんですが、しかしこれ、いわゆる初心者が理解できるのか、あるいは理解したとしても実践できるのか、という疑念は消せません。
ともかく、そうすることによって、シナリオをGMとPLが共有しても、そこから現れる文脈という形では何一つ共有できていないので(セッション前にそれを共有してしまった、それがもうセッションなので、セッションは不要になる、という意味のわからない話になるから)、セッションでは文脈を形成することになるわけですが、さてそうなるとGMの役割ってなんだろうって話にもなる。
従来型のGMの役割と立ち位置はルールの裁定者とストーリーの文脈の維持者だけど、システム構造によって文脈の維持者、つまり場面場面での決定者をPLサイドに委任することは不可能ではないように思う。むしろ文脈を共有しようとするなら、GMのような特権者は障害にすらなるのかもしれない。文脈を維持するためには、おおむねの場面においてルールの裁定権も必要になるだろうし。


こっから先は、まだ考え中の話。