話が違う

 朝、起きたら気分がよかったから、旅に出よう、と思った。
 旅と言っても、そんな大層なことじゃない。自転車で行ける範囲のサイクリング、それだって十分旅だし、いまはそういう旅に行きたい気分だ。
 相方にその事を伝えたら、どこに行くだのなにをするだの、あそこはいいねえ、こっちはどう、とか地域情報誌を持ち出してくる。そういうことじゃないんだ。いまの気分はそういう旅の気分じゃない。目的なんてなくていいんだし、ただ自転車で走れればそれでいいのに。
 どんな旅をしたいのか説明しなかったのも悪いけれど、説明をしてしまったらこの気分は壊れてしまう。だからきっと、一人でそっと抜け出して行くのが正しかったんだろう。もう手遅れだし、そんなことができたとも思えないけど。
 抜け出したら抜け出したで後で何か言われるしなあと、新しくできたショッピングモールだかアウトレットモールだかに入っているそこにしかないお店の話を聞きながら、サイクリング用のラフな格好を諦めて、相方に合わせたお出かけ用の服に着替えた。

意図の説明と説明の意図

 どうして、と聞かれても答えられないこともある。意図の説明は、聞いた時点でわからなければ、改めて説明したところでどうせ伝わりはしないのだし。
 だからといって、放置もできない。うまく説明はできないが、説明する気持ちはあることは伝えたい。まあ、それもうまくは伝わらないわけだけど。
『聞いているほうには、これがどっちなのかは伝わらないんだろうなあ』と思いながら、それでもなんとか話してみても、やっぱり通じなかった。どうしようもなく話がずれていく。
 最初はなんの話をしていたんだったかと思いながら、うまくもない例え話を出して余計混乱していくのだけはありありとわかるのに、どうにも止められない意図を誰か説明してくれないかな、なんてことを考えていた。

戦闘の構造

「勝てない戦争」という大前提の上に「戦闘を中心としたルール」という既存のアーキテクチャを乗っけてなにを表現したかったんだろうか、というようなことをシナリオを作りながら考えてしまう。
「PLの努力による戦闘の勝利」は決して「戦争の勝利」には結びつかない、という状況を覆すことを要求しているのか、あるいは「勝てない戦争」を「生き抜く努力」を要求しているのか。
解釈の可能性はいくらでもあるが、しかしまあ、端的に言って、こうもコンセンサスを統一しづらいコンセプトが提示されているのは、なんともアホらしいと思う次第。

「ルールいらない」についてのひとりごと

思い付きをだらだら書いてるだけなので、論理的整合性とかはほとんど考慮しないでお読みください。突っ込みどころは満載です。


「ルールいらない」が適用されるのは、「TRPG」そして「セッション」の目的が(ある程度)明確に共有されたプレイグループにおいてであり、「TRPG」そのものにおいてルールが不要になるということはありえない、というのをまず前提にします。
つまり、コンベンションのような「不特定多数のプレイヤが集まってセッションを行う」場面を想定した場合、そこには共通理解の媒介としてのルールは確実に必要になる、ということであり、サークル活動のような「特定のプレイヤが集まってセッションを行う」場面においては、ルールを介さない共通理解が可能な場合、ルールは特に必要とされるものではない、ということです。
「共通理解」という概念というか観念を中心としてルールの要不要を整理すると、まあ大体そんな感じかな、ということになります。野球やサッカーのルールが整備されていて、それが遵守されるのは、プレイの公平性ということもありますが、プレイの閲覧者を含んだ「試合」という環境の総体としての共通理解が必要とされるから、というような。


しかし「ルールいらない」というのはレトリックというかトートロジーというか、「明文法はいらない」という程度の意味合いでしかなく、「共通理解」という形での(より抽象的な)ルールは、これまた確実に存在しているわけです。
コミュニケーションというのは、理解してもらおうとする努力と共に、理解しようとする努力も要請するものであり、そうした相互の歩み寄りが存在しない限りは成立しませんが、それは理解のための(時に客観的な価値を伴う、合意された)フレームワークの整備を必要とし、TRPGという盤上においては、ルールという形で回収される構造になっているわけです。ゲームだから。
「ルールに関する合意がある」という暗黙の前提を踏まえるのも、「抽象的な共通理解に関する合意がある」という暗黙の前提を踏まえるのも、「コミュニケーションの成立」という目的の下には同じになる。「ルールいらない」というのは、つまり、その程度の意味でしかない。大したもんじゃないというか、「同じ業界の人なら業界用語でも会話が成立する」と言っているのに等しいわけです。それは「別のルールがある」と言っているのにも等しい。


「明文化されないルール」としての共通理解を取り上げた場合、その位置付けは、ゲームという場面よりも日常生活の場面により近くなります。ゲーム上のルールというのは、そのゲームに関してのみ意味を持つ、という含意があるからです。日常生活のルールというのは、必ずしも場面が特定されないものであり、状況に応じた判断と適用が求められます。「きちんとした格好」という言葉の意味は共有されていても、どのような格好がきちんとした格好なのかは場面に応じる、というような形で。
明文化されたルール(上記の例で言う「きちんとした格好をする」)がもっとも苦手とする抽象的な状況の処理に対して、「明文化されないルール」=抽象的なルールは優位性を発揮します。デジタルなパソコンの処理とアナログ(的)な脳による処理の差のような形で。定型処理はパソコンのほうが得意でも非定型処理は人間のほうが得意、というような(あくまでも現状においては、かもしれませんが)。そしてTRPGのルールというのは、概して「明文化されないルール」に性質として近似してくる。それはなぜか。
「明文化されないルール」は、同じ状況に対して別の処理をすることを容認します。必ずそうしなければならないわけでもありません。同じように処理してもいいし、処理しなくてもいい。それこそ日常と対比して考えるなら、基本的には同じように処理するけれど、さまざまな(特定できないほどの種類の)条件が加味された場合に、条件に応じた処理を(「明文化されないルール」に基づいて)行うことができる。
通常は赤信号は守るけれど、緊急車両は守らなくてもいい場合がある、というような感じです。緊急時には赤信号を守らなくてはいいと言っても、青信号で渡っている車両とぶつかっていいわけではない、という微妙な判断を下せるように。ルールを堅守しようとした場合、「緊急車両がいる場合」は必ず一般車両は停止して道を譲っている、という状況が暗黙の了解になりますが、実際には「緊急車両に気づかない」というような想定外の状況が発生します。
これらの状況を明文化するのは、実質、無理です。ある程度抽象化しなければ記述できない。記述しきれない状況というものが発生する。だからこそ明文化しない、という選択肢を取らざるをえない。


そうなると、ルールの明文化というものには、3種類が想定されることになります。「ルールを明文化する」「ルールを明文化しない」「ルールを明文化できない」の3種類です。
「ルールを明文化する」というのは、ルールとしての記述が可能であり、これを記述することが有意義(有価値)である、ということでもある。
「ルールを明文化しない」というのは、ルールとしての記述は可能だが、これを記述することが無意義(無価値)であり、時には弊害をもたらす、ということでもある。
「ルールを明文化できない」というのは、そもそもルールとしての記述が不可能である(言語化不能であったり、明文化というほどには具体化できないなど)、ということになる。
TRPGのルールブックでは、明文化する手法と明文化しない手法を使い分けた上で、明文化できない領域には立ち入らない、というマナー(のようなもの)があるように思えます。原則を明文化する手法で、個別具体事例に応じて処理すべきことは明文化しない手法で、解釈の余地を残して自由度を担保している、と。
明文化できないものはそもそも記述されえないのでどうしようもないですが、しかし意味の生成においてはこの明文化できないものが占めるウェイトは無視できないほどに大きいのではないか。そうした明文化できないルールの間隙を埋めるのが「世界観」の役割であり、ルールの原則のバックグラウンドとなる倫理や哲学を付与している、と考えると、ルールと世界観がワンセットになっていることに意義を見出すことができます。
GURPSが背景世界に合わせてカスタムしないと結局はその汎用性を発揮できないように、文明レベルや政治状況や経済状況に応じた千差万別な環境を表現できたとしてもチューニングするのは背景世界に任されます。棒状の武器で攻撃するっていってもそれは棍棒なのか鉄剣なのかライトセイバーなのか、というのは、背景世界に依存する問題であって、攻撃のルールに依存する問題ではなく、場面の意味の(再)生成を行うのは、ルールではなく攻撃の媒介となる武器の性質になります。

個人的な感想ですが、データが増加しまくってる類のゲーム、アリアンロッドアルシャードエンゼルギアソードワールド2.0(最近のだとそれぐらいしか知らないだけだけど)なんかは、ルールが世界観を裏切る(矛盾する)方向へのデータ拡張がかしましく、結果的に世界観をぼやけさせているという構造があると思います。データに意味を付与するための世界観が、データによって意味を飽和させられている、というような。
果たしてそれは、なんのための世界観であり、なんのためのデータなのか、ということであり、そしてまた、プレイヤはユーザレベルにおいて、こうした世界観やデータをそれぞれの環境にマッチングするように取捨選択することによってカスタマイズしていくことが必要である、ということも内包しているように思います。
最初期に提示された世界観が絶対である、というわけでもなく、拡張された世界観によって個々人が認識できる世界の断片が重ならない、つまりそれぞれが独自にまったく別の世界の側面を見ているだけになる、というようなことになると、前述した意味の生成を行う装置としての世界観の意味を棄却する効果しかないんじゃないか、という疑問です。
倫理や哲学を共有させられない世界観と、それによって生じる行動上の摩擦を吸収するのではなく投げっぱにする構造、というのは、果たしてユーザライクなのか。
まあ、データマニアはデータが多ければ正義でしょうが、データ自体が意味を生成することにもっとも組しているのはそうしたデータマニアでもあり、世界観がそれを統合できなくなった時に訪れる意味の破綻は、しかしデータマニアがデータマニアであるがゆえに意識されないものでもあるのかもしれません。
データマニアの暴走は、意味の破綻を招来するが、意味が破綻したところで、データマニアにはなんらの痛痒も与えられない。かつて意味のあった世界の残骸に戯れて遊ぶというのは、どことなくメキシコの死者の日を思い起こさせるものでもあります。


要約としては下記のような感じ。長いわりに中身がない。

  • 「ルールいらない」というのは、「共通理解」を否定するものではないということ。
  • 共通理解は、ルールという形式に則ってもいいけれど、ルールだけでは共通理解を実現することができないということ。
  • 意味の生成を行う要素は多様だが、要素自体の破綻によって意味の生成装置自体が自壊することもあるんじゃないかなということ。

「ストーリー=共有地」の悲劇のブクマレス

元ネタはこちら。

「ストーリー=共有地」の悲劇 - TRPG履歴
http://d.hatena.ne.jp/standby/20100213/p1

レスしなきゃなあ、と考えつつうまいこと言葉がまとまらなかったので時間が経ってしまったし、まあ短くても新規エントリでいいか、という割り切り。

id:crea555 # ゲーム・アニメ, * 卓上ゲーム, TRPG というか、GMはシナリオを用意する人であって、ストーリーを提示する人じゃないという思想を持つべきってことかしらん。シナリオとストーリーはイコールじゃないデスよね。 2010/02/13

このコメントの言葉を借用してレスすると、こんな感じになります。
シナリオとストーリーはイコールではないからこそ、シナリオというストーリーの種をGMが握ってしまうと、ストーリーに対してのGMの影響力が大きくなりすぎてしまうがために、GMからシナリオというストーリーの種を剥奪し、乖離させることによって、初めて参加者全員が自由にストーリーを構築できるのではないか、というのが私のまとめになります。その延長線上にGMのいないセッションがあるんじゃないか、と。
「シナリオ=ストーリー」ではないけど、シナリオはストーリーに対して一定以上の影響力を持つだろうし、それはけっこう大きいんじゃないか、ということになります。そういうフレームワークで遊んできてるし、ってのが実感部分です。


ここからはただの雑感ですが、GM持ち回り制度がここらを解決するというか一定のフレームワークを生み出す基礎になるんじゃないか、というようなことを考えています。
ストーリーの要素を提出するためのルール。要素の決定はランダムでも、決定された要素に対しての責任(責任という言い方が強すぎるという場合は分担)を誰かが担って、その要素を強調する(あたかも探偵が名推理を閃いた時のように)必要はある、のかもしれません。
基本姿勢として、「普通はぐだぐだになる」けど「たまにものすごく噛み合ってすごいストーリーになることもある」ぐらいのスタンスも大事かもしれません。このやり方で毎回毎回「すごいストーリー」なんてものが生まれるとも思えませんので。
小道具としてのUMLの活用とかが面白そうとは思ってますが、UMLを勉強し直す時間が取れない今日この頃です。UMLと組み合わせて、要素の属性を即興で決定していく形で「ランダムなストーリーの種」をばらまきつつ、可視化し、「ストーリーとして集約していく」というセッションはできるんじゃないかなあ、と。
そこにあるのは戦闘による判定主体のゲームではなく、ストーリーを構築するためのリソースをメタレベルで均一化する(PLレベルのリソースとPCレベルのリソースをうまく乖離できればいいんですが)、なんかもうTRPGなんだかそうじゃないんだかわからないものになりそうですが、「テーブルトーク」という部分をより強調した、「対話ルール」が設定されたものになりそうな予感だけがあります。

「ストーリー=共有地」の悲劇

ストーリーというのはオープンアクセス状態にある共有地=コモンズであり、利己的な利用者が共有地の資源を限界以上に取得しようとした時に悲劇=失敗が起こるんじゃないだろうか、なんていう夢想。
コモンズの悲劇については概要として下記を参照しています。

コモンズの悲劇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%9C%89%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87

で、ストーリーに対してのアクセス制限=非オープンアクセス化というのは、はてどのような仕組みがあるだろうか、と考えたわけですが、これがいまいち、思いつかない。暗黙の了解ではない、明示的な「ストーリー生成ルール」というのはなにかあるだろうか、という意味で。
エンゼルギアは、演出に関してはパトスチットによって管理していると思いますが、パトスチット=ロゴスの多少によって、ストーリーに干渉できるかどうかが決まるかといえば、そんなことはない。弱い形でのアクセス制限にはなってるだろうけれど、ストーリーを管理するという性向ではないので副次的な効果ではないか、と思います。そして概ねのシステムにおけるキャラクターリソースは、行為の成否を形成したとしても、行為の可否を形成することはない(やる気になりゃなんでもできる。失敗するだけで)というのが、当たり前になってるのではないか。
しかしどんなシステムであれ、ゴールデンルールのような形で、ストーリーに関する決定権はGMにあり、オープンアクセスではない、とすることもできます。
もしかしたら、だからこそ悲劇が起こるのではないか。「オープンアクセスではないものをオープンアクセスであると誤認する」ことによる悲劇、ということですが。


「本来は無制限に使用できるわけではない資源を無制限に利用する」という構図だけを取り上げれば、コモンズの悲劇と構造的には類似していると言えると思いますが、実質においては、「コモンズの制限を超えた私的な略取」なので、これはルール違反による悲劇=問題だ、と定義することはできます。
かといって、このルールが明確化されているか、とした場合、実はそうでもない。明確なルールがないままにユーザフレンドりを意識すればするほど、ユーザからの働きかけ=ストーリーの私的利用を促すことになり、こうしてストーリーに関するルールは曖昧になっていきます。
つまり……「ストーリー」というコモンズを枯渇させない=他のユーザが「ストーリー」を利用することをできなくしないためには、「(GMも含めた)ユーザのアクセス権限」を的確に設定しなければならない。できるかできないかではなく、しなければならない。


実社会においては慣習法のような形でアクセス制限を行っている場合もあり、ローカル・コモンズとして成立していることもあります。

ローカル・コモンズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BA

TRPGにおけるローカル・コモンズというのは存在しているのか。例えばサークル単位で存在していたとしても、TRPGユーザ全体で共有されていないルールは、ここではローカル・コモンズとは言えない。もっと広く、それこそ「ルールブックに明記される」ような形でのローカル・コモンズは存在するのかどうか。
これはルールブックを斜め読みするばかりの最近の私にはあんまり口出しできないというか不勉強ですいませんとしか言えないところですが、「ストーリーというコモンズを明確に管理するルール(あるいは指針)」が存在するルールブックがあればちょっと読んでみたいところ。


まあ概ねは責任主体の話になるんだろうし、そもそもストーリーなんてどうでもいい人(という形のコモンズの(この話の前提の場合は)侵害者)もいるだろうし、細かい話をしだすときりがないですけども。
「ストーリー」というのは、管理されるべきか否か。根本的にはそういう話なんでしょう。そして私は、「ルールという形で管理されるべき(個人の主体に基づくのではなく)」と考えています。実現できるかどうかはともかく。
なんとなく、「トーキョーNOVA」の神業とかのリソースは、ストーリーへのアクセス制限機能があるんじゃないかなあ、とは思うんですが、やったことないし最新のルールブックもないので印象だけです。


なお、このエントリはid:acceleratorさんの下記エントリに触発されていますが、内容的にはまったく関係ない方向に進んでいます。

物語コンテンツへのアクセス構造とストーリーライン - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/accelerator/20100208/p1

その上で関係ありそうなことを書くと、「ストーリーの提示者」と「GM」を分離できれば、GMなしのTRPGができるんじゃないかな、と考えています。誰が「敵役」や「NPC」をやっても(ダイスを振っても)不正は起こらないという前提も必要になりそうですが。
そして、ストーリーの種は、ランダムチャートでいいんじゃないか、とも。これについては、下記のエントリを読んでの雑感です。

構造というもの - crea555
http://d.hatena.ne.jp/crea555/20100209/1265693981

人間には「雑多で直接は関係ないかもしれない物語コンテンツの断片」たちを勝手にストーリーラインとして読み取る(物語化する)能力があります。「原因と結果」は「特殊な個別の事象・事実」であり、「ストーリーライン」は「一般的な普遍の真理・真実」です。
物語化する能力がある、というよりはむしろ制御できない生態に近いものとしてあります。たとえば「2D6を3回振ったら3回とも12が出た」という事象から勝手に「幸運(あるいは不運?)」という物語を読み取ります。それは珍しい確率の事象だ、というだけのことに過ぎないのに。

ユーザがストーリーを勝手に構築することができるのなら、別に用意しててもしてなくてもかまわないんじゃないのか。ランダムだと状況任せすぎるかもしれないけれど、それは逆に、ランダムでなければ(=シナリオを用意していれば)ストーリーを構築する上で優位性があるのか、という問いに繋がり、私は、(GMが)シナリオを用意したからといって、ストーリー構築が可能だとは思わないし、そもそもそれが面白いものだと保証されるものでもない、と考えます。
ランダムでも、事前にシナリオを用意しても、楽しい楽しくないというのはそれとは別のポイントに評価点があるんじゃないかという意味で、「GMとストーリー提示者の分離」というのは、意味というか意義のあることなんじゃないかと思います。
余談ですが……日常生活レベルで見た場合、こうした「ストーリー構築能力」というのは迷信に紐付けられて論じられることも多いものですし(「死亡フラグ」は迷信ですが、ストーリー上においては「黄金律」に近いなにかだ、という意味で)、ゲームという局面のみに極限化するマナーは必要になりそうですが。
まあ、遊び方がそれだけになったらどーかなとは思いますが、それはどんな遊び方でも同じことなので。

完璧な人間ではないことを理由に責めることはできない

副題は、「完璧な人間になろうとしないことを理由に責めることはできない」です。


別に言うまでもないことではあるんですけども。
ロールプレイ至上主義者であるところの私としては、ロールプレイをできるようになろうとしない人に対しては点が辛いわけですが(同様に、ゲームの数値的な部分に対してずぼらな私は、あれこれいろいろどうなんだ、という評価があることも承知しています)、さりとてそれを理由に非難することはできない、ということは頭ではわかっていても、なかなか態度に出ちゃってるなとは思うわけです。大人力が足りない。
その上で思うのは、「ロールプレイには別に興味ないんで」ってんなら、先にそれは教えて欲しいなあ、と思うと同時に、自分のロールプレイ至上主義者っぷりの伝え方がまずかったんだろうなあ、という反省もあり、結局はどっちもどっちやんなあ、ってことなわけですが。


ただ、完璧であるか否かに関わりなく、言行の不一致は、単純に困るなと。そうは思うわけです。しかし、人間、常に言行を一致させられるわけでもなく、つまりは言行を一致させられるのなんて「完璧な人間」ぐらいなんじゃねえの、とも思うわけで。
まあ、言行の不一致って、意外と指摘されないと気付かなかったりもするわけですが。指摘された時に謙虚に受け止める心の余裕は持ちたいな、と。反射的に反応するんじゃなく。でもそれは結局完璧な人間を目指してることになるし、そうしない人を責めることはやっぱりできないんじゃねえの、という論理のループにはまるわけで。
こんな極論の二択はあんまり意味ないし、窮屈だし、疲れるだけですけども。自説を顕示することはいいとしても(内容にもよりますが)、執着しちゃああかんな、というバランス感覚は大事にしたいところです。


能力、という点において。
「(現時点でか将来においてもかはともかく)それはできない」ということはあると思います。いままで野球に縁がなかった人が、いきなりプロ野球選手並のバッティングを要求されても、それはできない、というレベルの話として。練習してできるようになる人もいるかもしれんし、やっぱりできないままかもしれない。そういうものはあるよ、と。
そうした「できること/できないこと」がなにを決めるのか。もっといえば、人間性というのはそういうものだけで評価できるのか。短所があれば長所は全部なかったことになるのか。長所があれば短所は隠蔽されるのか。長所短所なんて個人の価値観での判断にすぎないものが絶対基準を持ちえるのか。それを基準になにを判断できるといえるのか。
清濁併せ呑む、じゃないですが、しかし人間というのはそういうものなんだろうから、よっぽど肌に合わない人以外は、まあそういう人だ、と評価すること自体は、当然のことなんじゃなかろうか。受容できる短所の人とだけ付き合うのか、というのは、楽だろうけど不健全だろうなあ、とも思うわけで。理想郷というのは停滞の同義語なのかもしれず。


ま、人間として受容するということと、言説あるいは能力を受容するということは、似ているようでまったく似ていないし、それを混同したところで答えらしきものすらありゃしませんが。
能力の要求者と被要求者という関係において、要求者が能力を満たしているか否か、非要求者が能力を満たしている否かか、という四つの組み合わせを考えると、それぞれの組み合わせの中でもまた別種のジレンマが発生しうるなあ、というところまで飛躍してやめた。手に余る。
寛容は大事だけど、寛容を求めるのもまた完璧な人間を求めるのと同じかしらん、という疑問がエントリの発端だったのでした。オチはない。


追記
切り口としては愚行権の話になるんだろうか、ということをぼんやりと考えた。

愚行権とは - はてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%F2%B9%D4%B8%A2

傍から見ると愚かなことをしているようにみえても、本人がそれで良くて、ほかの誰にも迷惑をかけていないのであれば、その愚かな行為を他人が止める権利はない、という意味がこめられている。

果たして(コミュニケーションゲームである)TRPGにおいて、「本人がそれで良くて、ほかの誰にも迷惑をかけていない」なんて状況がありうるのか。能力の不足によって、本当に迷惑がかからないといえるのか。
迷惑のレベルをどこに設定するか、能力ってなんの能力、という話もありますけども。他者の存在を規定できない人は、愚行権を行使することもできないのかもしれない。なんてことを派生的に思ったりした。
そして、他者の存在の既定の仕方は……さて、なにに基づいて行われるものなのやら。少なくとも、主観的ではない客観的な規定であってほしいとは思いますが。この場合の客観ってナニモノですかねえ。